書評:「単純な脳、複雑な「私」」
先月はマーク・ブキャナン著『複雑な世界、単純な法則』を紹介しましたが、そのアンサーソングならぬアンサーブックとしてぜひこの『単純な脳、複雑な「私」』を取り上げたいと思います。
タイトルは当然、ブキャナンの著書を意識したもの。世界が複雑になるのは、意外にも単純な法則によるものであるという複雑系のコンセプトが、脳の世界でも同様なのだということを示唆しています。自然界や人間社会同様、脳の中にもネットワークが張り巡らされており、そのことによって複雑な世界が生み出される。脳が生み出す心もまた、こうした複雑系が生み出したものであるわけです。
著者の池谷裕二さんは、東京大学薬学部の准教授として脳を研究しており、糸井重里さんとの共著である『海馬』など、難しい脳科学の世界をわかりやすい言葉で説明する名手でもあります。高校生を対象に行った講義をもとに書き起こされた本書もその例に漏れず、非常にわかりやすい説明が施されています。
しかし、説明がわかりやすいからといって、内容が簡単だということを意味しません。単純な法則が複雑な世界を生み出す複雑系同様に、この本もまた、高校生でも理解できるわかりやすい説明のなかに、深遠なテーマをはらんでいることが、読み始めてすぐにわかるでしょう。
たとえば、リカージョンという脳の特性について触れられているのですが、これはさまざまな示唆を含んでいます。
リカージョンというのは、自己言及していくときの入れ子構造のこと。たとえば、脳について考えている私たちは、脳を使っています。脳を使って脳について考えるというとき、入れ子の構造が発生しています。こうした入れ子構造をリカージョンと呼びます。
このリカージョンこそが、脳の複雑性を生み出す秘訣なのだと言います。単純なルールであっても、それが入れ子構造になって何度も繰り返されることによって複雑な振る舞いをするようになる。この場合、リカージョンという仕組みこそが、複雑性を生み出す要因なのです。
DNAもまた、おそらく生命の設計図というよりは、ルールを示したものではないかと池谷さんは指摘します。人体という複雑なものを、隅々まで設計しようとすると、膨大な情報量になります。しかし実際には、DNAの情報はそれほどまでは多くありません。DNAに記載されているのはおそらく、基本となるルールであり、そのルールが複製され、何度も繰り返し実行されることによって、複雑な人体ができあがっているのではないかというのです。
これは脳や人体の仕組みだけに限りません。たとえば企業もまた、ある基本的なルールの入れ子構造によって構成されていると言ってもいいのではないかと思います。たとえば、品質を追求するという企業DNAは、企業全体だけでなく、部署単位、チーム単位、個人レベルでも繰り返され、リカージョンが構成されます。そしてその結果、「最高品質を追求する」という単純なルールが、複雑な企業文化を生み出していくことになるのです。
とすると、肝心なことは二つあるということがわかります。ひとつは、複雑系を生み出すよう予見した上で設定されるシンプルなルール。もうひとつは、そのルールが何度も入れ子状に繰り返されるリカージョンの構造をつくるということ。この二つによって、脳だけでなく、おそらく企業文化の形成やブランドの構築、企業間ネットワークの構築などにおいて、なにかのヒントになるのではないかと思います。
対象が複雑であればあるほど、それを設計することは困難を極めます。そのときには、ルールと、そのルールが複雑性を生むリカージョンの構造を用意することが大切なのです。
本書は、脳によって生み出される心の不思議について迫る内容ですが、その心の構造はそのまま、ビジネスのさまざまな場面に応用してみることが可能なのです。
