書評:「ビジネス・インサイト−創造の知とは何か」
脳の複雑性が、リカージョンという情報の入れ子構造にあるということを、前回の『単純な脳、複雑な「私」』でご紹介しました。アウトプットした情報がそのまま投げかけられたままになっている場合、その情報を発した側は、複雑性を獲得することはありません。その発信者に、さまざまなかたちで情報がフィードバックされることによって、思考はより深まり、複雑になっていきます。
ビジネスにおいても同様で、ユーザーが自分一人でひっそりと、その商品を使っている分には、それほど複雑な心理は生まれません。しかし、他人が何を使っているのかとか、その商品を使っているのを人に見られたときにどう思われるかとか、さまざまな方向からの情報のフィードバックが行われることによって、ユーザーの心理は複雑に変化していきます。誰もが使っていると安心する一方で、あまりに多くの人が使っていると今度は恥ずかしくなり、という感情のゆらぎです。
こうしたゆらぎは、実証的に、再現性のあるかたちで証明することは非常に困難です。そこに複雑系の難しさとおもしろさについて知ることのできる推薦書として、『複雑な世界、単純な法則』をご紹介しましたが、単純な法則であっても、そこに幾重もの情報のフィードバックがかかることによって複雑な世界になっていくことは、たとえばサブプライム問題が連鎖的に信用崩壊を引き起こしたプロセスにも見ることができます。こうした問題をロジカルに「予測する」ことは非常に困難で、それは、数千年もの間白い白鳥を見続けた人類が、黒い白鳥の登場を予測することの困難とよく似ています。(ベストセラー『ブラック・スワン』は、この連載でもご紹介したいと思います。)
さて、こうした視点を共有したうえで、ビジネスにおいてこうした複雑性をどのように取り扱うべきかという問題を考えるとき、今回紹介する石井淳蔵教授の『ビジネス・インサイト』は、思考を深めるための格好の書籍と言えるでしょう。マイケル・ポランニーの暗黙知のコンセプトをベースに、ビジネスにおける複雑性を取り扱うため、「ビジネス・インサイト」という方法を提案します。
このときの暗黙知とは、「暗黙のうちに知ってしまう知の働き」のことであり、英語で言えばtacit knowingという進行形のかたちで表現される知性のこと。言葉にはできないけれども、「このプロジェクトは成功しそうだ」とか「消費者はこの商品をきっと欲しているだろう」といった直感的に知る力のことなのです。
これは従来の仮説検証型の科学の方法とは一線を画すものです。自身も世界的な研究を行っていた化学者であったポランニーは、哲学者へと転向したした後、科学の主要な発見が暗黙知にもとづいて行われていることを明らかにしました。言葉にならない、言葉に依らない思考のプロセスは、明らかにしようしている対象に「棲み込む」ことによって発動するのだと言います。石井教授はビジネスにおける暗黙知の働きを「ビジネス・インサイト」と呼び、コンビニや宅急便ビジネスなどのケースを紹介しながら、その重要性を示しています。
「インサイト」というと、広告代理店時代にコンシューマー・インサイトというコンセプトを思い出します。消費者の気持ちに「棲み込む」ことによって、心理を理解し、適切なコミュニケーションを行っていく。広告ビジネスにおいて、ロジカルな分析では不十分であり、インサイトに基づく戦略立案が求められ始めました。こうしたコンシューマー・インサイトを行う役割として、アカウント・プランナーというポジションが提唱されました。
広告代理店においてコンシューマー・インサイトを取り扱う責任者がアカウント・プランナーだとしたら、ビジネスのプロジェクトのにおいてビジネス・インサイトを取り扱う責任者は誰なのでしょうか。プロジェクト・リーダーであり、究極的にはその会社の社長であるというのが、その答えではないかと思っています。
