金曜日, 9月 25, 2009
文学に理論はいらないという人達は、極楽とんぼである。なぜなら、彼らが理論でなく実感だと信じているものは、概ね十九世紀に確立した理論にすぎないからだ。現実があり、風景があり、内面があり、私がある、と彼らはいうだろうが、それらは、近年に作りだされた、そしてそのことが忘れられた一つの制度に他ならない。しかも、この制度は大学の制度などとちがって、自然かつ自明な意識としてある。「文学」の外にイデオロギーがあるのではなく、「文学」がイデオロギーなのだ。「文学」の外に政治があるのではなく、「文学」が政治なのだ。「政治と文学」という考えはすでに「文学」である。文学に拠って自己確立(自己実現)しようとか、あるいは文学に閉じこもるべきではないとかいった議論は、すでに「文学」である。「文学」はそれによって無傷のまま生きのびる。
それに抗おうとするならば、理論的であるほかはない。むろんそれは文学の理論ではないし、また理論的であれといっているのでもない。結局、少数の作家たちは、不可避的に困難な場所に追いこまれているし、他の多くの作家はそれと無縁である。その困難は才能によってこえられるものではなく、むしろ才能だけが見出しうるものである。文学が衰弱していようといまいと、私は関知しない。私が関知するのは、すくなくとも少数の作家たちがあるぎりぎりの場所に立ちかけていることだ。それは先へ進むというよりは、近代文学を根こそぎ裏返そうとすることである。しかし、このぎりぎりの場所には終わり=目的がない。反復することしかないのである。

「反文学論」柄谷行人

こうしたイデオロギー性に立ち向かった作家の一人が、高橋源一郎という理解でおけ? 彼の作品ほど「反復することしかない」ということを感じさせるものはない。